歴史上の出来事


◇大伴家持からのメッセージ(宮城県・男性)

◆苗字が「大友」という方がおいでになりました。母屋を普請するのに、屋根の一部を取り壊したところ、古い棟札が出てきたというのです。古い墨字で年月日と名前らしきがものが書いてあり、「大伴○○」という文字が読めたそうです。その家は代々家督が継いできたもので、ひょっとしたら、姓は今の「大友」ではなく「大伴」が正しい表記で、大伴家持と何らかの関係があるのではないでしょうか?というご相談でした。
もちろん今更、調べる手立てもなく、いろいろと検討した結果、この際、大伴家持ご本人に聞いてみましょう、ということになってしまいました。大巫女により降霊が始まりましたが、果たして1,500年も前の人の霊魂が降りてくるかはまったく不明でした。やがて大巫女が口を開き、吾は大伴家持であると告げられたのです。それは和歌を歌うような、抑揚のある話し方でした。また聞きなれない古語文体そのものでしたので、理解のできない点が多く、それでも何とか「大伴と大友の関係」をお聞きしたいと思い、調べるには京都、奈良あるいは九州何れの地が宜しいでしょうか?とお聞きしました。大伴家持と言えば万葉集の編者ですから、てっきり京都か九州あたりの方だろうという思いがありましたで、そのようにお聞きした訳です。しかし、大伴家持の霊は意外なことを口にしました。吾は陸奥の国と共にあり、石巻は吾の永遠の地であると仰せられたのです。そして、自分を呼んでくれたことに感謝を申され霊界へとお帰りになられました。
これには私たちもびっくり。さっそく、大伴家持に関して調べることにしました。確かに大伴家持は、延暦3年(784年)に持節征東将軍に任ぜられ、蝦夷征討の責任者となって宮城県の多賀城に赴任しておりました。昔、教科書で習った坂上田村麻呂征夷東将軍が東北に来る8年前のことです。その際に彼は、日本三大虚空蔵尊のひとつが、石巻の柳津というところにあるというのを聞いて早速出かけたというのです。やがて参拝を終えての帰り道、まもなく山の端に太陽が隠れようとする寺の山門をくぐりました。道の脇には小川が流れており、小さな橋が架かっていました。 そこには一人の女性がしゃがんで洗濯をしていたといいます。そして、その乙女に黄金色に輝く太陽の光が注がれていました。何気なくその女に目をやった大伴家持は、その夕陽に照らされた乙女の白いうなじの、あまりの美しさに思わず息を飲んだというのです。
それ以来、大伴家持にとってその女性は忘れ得ぬ人となってしまいました。そして、波乱に飛んだ67年間の人生を、最後は石巻のこの地でこの女性と共に暮らしたということです。その後、大巫女の霊視によると、彼の墓は多賀城の地にあるとのことでしたが、現在のところその場所の特定はまだされておりません。後に、この話を多賀城市の文化関係者に伝えたところ、史実の裏付けが取れ「大伴家持の万葉集」に縁する新たな祭が催されることになったということでした。